1711年〜1776年
出身地:イギリス・エディンバラ
イギリス経験論哲学の完成者。歴史学者でもある。
哲学以外の学問に興味が持てず大学を中退し、自宅で哲学の研究に没頭する。
大学教授を夢に見ていたが、懐疑論者・無神論者として批判の槍玉となり、その願いは生涯叶うことはなかった。
その思想は、アメリカ建国の立役者たちにも大きな影響を与えた。
画像出典:Wikipedia
【懐疑論】ヒュームさんの回答は…
私たちの考えは全て経験に由来するが、その経験と現実が一致しているという保証はどこにもない。
神も科学も全ては経験の産物にすぎないのです。
デカルトは哲学体系の公理として、「疑う私の存在」を発見した…というのは先に述べたとおりです。
このことは、たしかに真理といっても良いほどの画期的な発見ではありました。
しかし、我々が求めている「真理」とは何か違うような気もします。
めっちゃ欲しかったヤツだ〜
(コレじゃねえよ、タコが。)
「あなたが疑っている瞬間こそが、この世の真実なのだ!」というのがファイナルアンサーだったとしても、なんの役にも立ちません。
大事なのは、 そこから導き出される究極の結論なのです。
もちろんデカルトさんはそのへんもキチンとわきまえており、最終的な結論まで用意してくれていました。
(疑う)私の存在は確実なのだから、私がちゃんと理解したり認識するものも確実に存在する。
あれだけ世の中のすべてを疑いまくった人物とは思えない発言です。
私たちの理解・認識しているものは、夢かもしれないし、悪霊が幻覚を見せているだけかもしれない…ということで決着は着いたはずです。
さらにデカルトは続けました。
なぜ私の認識が正しいと言えるのか?それは、神様が私をつくったからだ。
神様がつくったのだから、私の認識はちゃんとしている。
とうとう神の存在まで持ち出してきます。もう、どっちらけです。
当然、この結論は大炎上します。
そんなデカルトへの批判から生まれた哲学体系の一つに「イギリス経験論」があります。
経験論とは、「人間の知識や思考というものは、すべて経験によるものである」という考え方のこと。
ヒュームはその経験論を極限まで突き詰めた哲学者です。彼はデカルトをディスりまくります。
あなたの「疑う私の存在は確実」という主張ですが…
そもそもその「私」って一体何なんでしょうね?
あなたの言い方だと、まるで「私」という存在は「心」のようなもので、肉体とは別物として存在してるみたいな感じですよね?
ヒュームの言う通り、デカルトは「物と心は完全なる別物である(物心二元論)」という考えの人でした。
あなたのその「物心二元論」は習慣的信念といって、習慣的にそう信じているだけのことなんです。
経験論の立場から言うと、「私(心)」というのは単なる知覚の集まりに過ぎません。
あなたが「公理」と信じているそれについても、単なる思い込みなんです。
ヒュームの主張を一言でいうとこんな感じです。
すべては経験による「思い込み」です。
人が物事を捉えるときのスタンスは大きく2つに分けられます。
- 主観的か?
- 客観的か?
しかし、経験論では「客観的なものなど無い」とし、人は主観の中から出ることは出来ないと考えます。
ヒュームはその経験論を「懐疑」によって完成させます。
この【懐疑論】がデカルトの方法的懐疑と違うのは、誰もが信じて疑わない常識を土台ごとひっくり返した点にあります。
①神様
②科学
現代に生きる私たちだって、少なくともこの①か②のどちらかは「正しいもの」だと信じているはずです。
ですが、ヒュームは違います。
徹底した懐疑の眼差しにより、①と②のどちらも論破してしまうのです。
まずは①神様について。
それまでの哲学者で神様を否定するような畏れ多い発言をする者などいませんでした。それはヒューム以外の経験論者も同じです。
「私達は神様を知らないし、経験したこともない。では、人はなぜ神様を知っているのか?それは、神様だけは特別な唯一の存在だからであ~る!」
ですが、破壊者ヒュームは容赦なくこれを否定します。
いやいや。伝説の生き物に「ペガサス」っていますよね。あれって「馬+翼」のイメージから生み出された、想像の産物なんです。
神様だって同じです。「自分を見守ってくれる誰か」と「絶対に逆らえない誰か」というものを経験したことのある人が、経験を組み合わせた想像物に過ぎません。
幼児だって「親」から、神様を連想することだってイージーですよね。
②の科学についても、ヒュームは躊躇なくケンカを売っていきます。
科学法則って、結局は経験の積み重ねによる産物ですよね?
それが現実世界と一致しているという根拠って、一体どこにあるんでしょうか?
なんという傲岸不遜ぶり。
科学を当たり前のものとして認識している現代の私達からすると、難クセをつけているだけの輩にしか見えません。
ですが実際、この主張はかなり合理的です。
たとえば、私達は「火は熱い」ということは絶対確実な科学法則だと思っています。
「火に触ると熱かった」という経験が繰り返された結果、「火=熱い」という因果関係がそこにはあると、人間が勝手に思い込んでいるだけなんです。
その思い込んだ因果関係が本当にあるかどうかは、人間には知りようがない…と彼は言います。
つまり、「火」と「熱い」の間には、本当は何の因果関係も成り立たない可能性だってあるのです。
私達の未だ知らない「ナニカ」が、たまたま「火」の近くにいつもいるせいで「熱い」という可能性を否定することは出来ないのです。
火に触って1兆回やけどをしたからといって、次の1兆1回目でも同じ事が起きる保証はどこにもありません。
「状態Aになるとき、状態Bが起こる」という法則なんて、現実世界と一致している保証などどこにもないのです。
実際、私達はよく錯覚したり、勘違いをしてしまいます。
ヒュームの主張は、一見するとブッ飛んでいるように思えますが、よくよく考えてみると合理的で確かに説得力があります。
ヒュームの答え
私たちの考えは全て経験に由来するが、その経験と現実が一致しているという保証はどこにもない。
神も科学も全ては経験の産物にすぎないのです。
次回予告:真理は人間が規定するものだ!近代哲学最大の分岐点、カント。
神や科学までも疑うほど、徹底していたヒュームの【懐疑論】。
しかし、疑っているだけではいつまで経っても真理に到達することなど出来ない。
デカルトと同じ理性主義者でありながら、ヒュームの懐疑論に大きな衝撃を受けたカント。
彼はヒュームの懐疑を逃げること無く真正面で受け止めながらも、それを払いのける真理を見つけ出すという大偉業を成し遂げる!
彼の主張は哲学のあり方さえも変えてしまうものだった―。
次回、『真理は人間が規定するものだ!近代哲学最大の分岐点、カント』乞うご期待!!
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